jsno40@umin.ac.jp
jsno40@convex.co.jp
 
 
日本脳腫瘍学会学術集会 第40回記念理事長挨拶
   特定非営利活動法人 日本脳腫瘍学会 理事長
(杏林大学医学部脳神経外科学)
永根基雄
  
 

 会長の成田善孝先生、国立がん研究センター中央病院脳脊髄腫瘍科及びorganizing committeeの皆様、第40回日本脳腫瘍学会学術集会を千葉県鴨川市にてご開催頂き、誠にありがとうございます。会員を代表して感謝申し上げます。
 本学会は、日本国内における脳腫瘍(Neuro-oncology)関連の学会・研究会の中で、もっとも長い伝統と歴史をもつ会です。1980年に本学会の前身である第1回「日光脳腫瘍カンファレンス」が永井政勝会長により開催されたことを端緒に、2002年に任意学術団体「日本脳腫瘍学会」が創立され、学会へと進化いたしました。2008年に特定非営利活動法人として認証され、理事長は初代の松谷雅生先生から、渋井壮一郎先生、西川亮先生へと引き継がれ、脳腫瘍に関する基礎・臨床研究の推進、普及に貢献し、社会福祉の増進に寄与することを目的として活動を発展させてまいりました。
 年に一度の学術集会は、このような本学会の目的を果たすための最大の事業であり、本会では参加者一同が一つのホテルに泊まり込み、日々多忙な日常臨床業務から離れて、会期中朝から晩まで心おきなく脳腫瘍についてさまざまな背景、角度から語り合う(明かす)特殊なスタイルを、設立当初より一貫して続けて参りました。2020年初頭からの未曾有のパンデミックを経験した今、感染対策やWeb配信等の新たな形も取り入れながらも、本学会の精神を踏襲していける参加者間の交流に満ちた学術集会を継続していければと思います。
 当初、我が国では脳神経外科医が中心となって脳腫瘍の診療全般に当たってまいりましたが、患者さんの緩和を含めた多角的なケアに加え、放射線治療、病理診断学、がんゲノム医療にかかわる免疫・分子標的治療など、進化を続ける薬物療法に、さらには小児脳腫瘍など、他の多領域にわたる専門性が要求されることがNeuro-oncologyの特徴です。学際的な視点に立ち、幅広く横断的な脳腫瘍診療活動を推進することが求められております。また、急速に進歩する医学、医療状況の中で、直面する課題も多数あります。よりよい治療法の開発のみならず、分子診断が求められるようになったWHO診断基準を広く実施するための診断法の保険収載の問題、一般診療での指針となる脳腫瘍診療ガイドラインの拡充やタイムリーなアップデート、若手医師や研究者養成のシステム作りや、会員や一般の方々への教育コンテンツの提供、女性やマイノリティの共同参画の推進、広く国際交流増進と日本からの情報発信など、対応が必要と考えております。
 今回、記念すべき第40回という区切りの学術集会になります。成田会長にはこのようなNeuro-oncologyの諸領域における科学的な議論はもとより、脳腫瘍患者における全人的ケアの重要性を考察し、有用な実践を目指した支持療法をテーマとした企画も多数盛り込んで頂いております。これまでの歴史を振り返りつつ、本学会のモットーであります、熱い想いに満ちた多くの参加者によるDiscussionにより、皆様にとって有意義な会となりますことを確信しております。多数の皆様にご参加頂きますよう、よろしくお願い申し上げます。



History of Japan Society for Neuro-Oncology
第1回日光脳腫瘍カンファレンス (1980 日光プリンスホテル)
第3回日本脳腫瘍カンファレンス (1994 りんどう湖ロイヤルホテル(那須高原))
永井 政勝  獨協医科大学名誉教授
 

 The Japan Society for Neuro-Oncology (JSNO) was inaugurated in 1980 by the advocacy of Dr. Takao Hoshino, who was a staff member in the Department of Neurological Surgery, University of California San Francisco (UCSF) at that time. In the United States, the 'U.S.Conference on Brain Tumor Research and Therapy' had been held since 1975, under the leadership of Dr. Charles Wilson and Dr. Victor Levin of UCSF, at the famous resort Asilomar in California. This so-called 'Asilomar Conference' was organized as a semi-closed system in which relatively few participants (about 50) stayed overnight at the same lodging for two to three days. Dr.Hoshino and the author planned the Japanese Conference in a similar style as the Asilomar conference.
 The first Meeting of Conference in Japan was held in 1980 with chairperson Dr. Masakatsu Nagai, at Nikko, one of the most famous sight-seeing places in Japan, so that, Conference was named as the 'Nikko Conference on Brain Tumor Research and Therapy'. 37 papers were presented and 68 participants attended the two-day meeting. It was not certain whether such a meeting could continue in the future at this point in time. The Conference was held every two years until the third Meeting, but due to a stronger voices calling for yearly meetings, it came to be held, after the fourth Meeting, every year. Resorts throughout the whole country were chosen as Conference sites. As for the participants at the Conference, the number was initially limited, but with the increasing numbers of young brain tumor researchers and the increasing numbers of applications for participation, an open system was initiated from the 10th Meeting. The name of the Conference was also changed to the 'Japanese Conference on Brain Tumor Research and Therapy'. Because the number of papers and participants continued to increase, the Conference gradually reached the scale of a Society. The Society structure was fixed in 2002, and it was named the 'Japan Society of Neuro-Oncology' which continues up to now.
 Consistently from the start, the main subject matter of JSNO has been basic research on malignant brain tumors, especially malignant gliomas and the development of therapeutic measures against them. Many research results have been presented by JSNO participants, and superior achievements have been brought forth regarding molecular genetics of glioma pathogenesis, tumor biology focused on cell-kinetics, chemotherapy, radiotherapy, immunotherapy, gene therapy and combination therapies of these on malignant glioma.
 The Annual Meeting of JSNO (25 in total) was held with chairperson Dr. Soichiro Shibui in Tokyo in December 2007. There were 188 written applications, and the participant number was a record-high of 280 people. Compared to the First Meeting in 1980, the number of subjects covered has increased five hold and the number of participants is four times as many. There is an immeasurable deep emotion for such a surprising development as the Meeting. The characteristic style of Meeting, however, has not changed compared to the time of the 'Conference' even after having now become a 'Society'. Namely, all the participants still stay at the same lodging, continue heated discussions till midnight in front of poster presentations, holding a wine-glass in one hand (Poster & Wine session! ).
 The founder of JSNO Dr. Takao Hoshino died in 1993, but he left a legacy of encouragement to the foundation in the form of and award for the most excellent article on brain tumor research. The prize was named the 'Hoshino Award', and there are a lot of nominations for it every year. 15 young researchers have won it since 1993. JSNO linked into the 'International Conference on Brain Tumor Research and Therapy' (ICBTRT) which developed from the 'U.S.Conference'. The 4th ICBTRT (1981), with Dr. Keiji Sano as chairperson, the 7th (1987), with Dr.Masakatsu Nagai as chairperson, and the 13th (1999), with Dr. Hiroshi Abe as chairperson were held in Japan and the 17th ICBTRT will be held in this year (2008) at Hakodate, Hokkaido, with chairperson Dr. Masao Matsutani. Moreover, the Asian Society for Neuro-Oncology was inaugurated in 2002, at Kumamoto, Japan with chairperson Dr. Yukitaka Ushio, which afterwards has been organized every year in each country in Asia.
 The activity of JSNO is expected to be aimed at further development of cooperation with these international societies and to help bring about remarkable results on brain tumor research throughout the world.

(日本脳腫瘍学会HPより転載)



第2回日光脳腫瘍カンファランスの想い出
第2回日光脳腫瘍カンファレンス会長(1982 日光プリンスホテル)
阿部 弘  北海道脳神経外科記念病院・北海道大学名誉教授
 

 1979年10月、私はUCSF Brain Tumor Centerに留学していた星野孝夫先生に誘われて、初めてAsilomar Conference (Conference on Brain Tumor Research and Therapy)に参加した。日本からは高倉公朋先生、永井政勝先生、生塩之敬先生、松谷雅生先生等も出席した。星野先生から、「この学会は、脳腫瘍の研究に於いて、研究が未完成でも、よい結果が得られなかったものでも、新しい生々しい最先端の研究について発表し、それに対して熱い討論を交わす会です」と説明を受けていた。出席してみると、全くその通りで、正直な結果の発表と熱気あふれる討論に圧倒されて帰国した。(写真1)
  やがてそのような会を日本でも開催しようという気運が星野先生を中心に盛り上って、第1回研究会が‟日光脳腫瘍カンファレンス“として1980年に日光で開催された。永井政勝先生が第1回目の会長を務めた。当初はsemi-closedの会で、実際に脳腫瘍の研究に従事している若い人達の発表を中心にプログラムが組まれた。数十名が参加し、ホットな討論が交わされた。
  そして、第2回を何と私にやれという命が下されて、当時まだ助教授であった私がやはり日光で第2回研究会を開催した。参加者は、やはりまだsemi-closedで約70名が参加した。プログラムは若手中心に組まれたが、佐野圭司先生、竹内一夫先生、松角康彦先生、松本悟先生などの大御所の先生方も参加された。ゲストスピーカーとして、UCSF Brain Tumor CenterのVictor Levin准教授と北海道大学癌研究施設の小林博教授を招待した。化学療法のセッションは、Victorを中心に企画されて英語での発表と討論となった。プログラムは脳腫瘍の発生機序、成長過程、代謝機序、化学療法、放射線療法等が組まれた。Asilomar Conferenceに負けない活発な討論がなされた。(写真2~4)
  Asilomar Conferenceでは、2日目の午後に、excursionがあって息抜きできたが、日光カンファレンスではexcursionがなく、終日坐りっぱなしで発表と討論に明け暮れて足がむくんだのを憶えている。出席者全員が日光プリンスホテルに宿泊したので、夜は毎晩あちこちで集まって飲みながら、脳腫瘍研究への熱い想いを語り合った。私は北海道からワイン、酒を送ってもてなした。学会を手伝ったのは、北大脳神経外科の数名の若い教室員達で、全てが手作りの研究会であった。ホテルの他には静かな湖と秋深い枯葉の森林があるのみで、まさに“脳腫瘍漬け”の2日半であった。


写真1 Asilomarの海岸にて、左より松谷雅生先生、
筆者、生塩之敬先生、星野孝夫先生(永井政勝先生撮影)1979年
 
   
写真2 夕食時のテーブルにて、左より1人おいて、筆者、星野孝夫先生、小林博先生(1982年.日光)   写真3 夕食時のテーブルにて、左より永井政勝先生、Victor Levin(背中)、佐野圭司先生、生塩之敬先生(1982年.日   写真4 会長室にて歓談、左より星野孝夫先生、高倉公朋先生、1人おいて、松谷雅生先生(1982年.日光)


日本脳腫瘍学会の更なる発展を祈念して
第5回日光脳腫瘍カンファレンス(1986 箱根プリンスホテル)
第9回日本脳腫瘍カンファレンス(2000 箱根プリンスホテル)

野村 和弘  元国立がんセンター院長
 

 脳腫瘍学会をこれから率いていく諸先生方に、私の心にいつも残っている。言葉をここに記して、更なる発展を期待いたします。
 それは、日本脳神経外科学会の創始者の一人である佐野圭司先生がある挨拶で引用された詩であります。

 青春
 サミュエル ウルマン(Samuel Ullman 1840-1924)
 「青春とは人生の一時期を指すのではなくて、心の持ちかたをいうのである。」
 (Youth is not a time of life; it is a state of mind)」で始る詩です。その中に
 「歳月は皮膚にしわをよせるかも知れない。しかし情熱を失えば心は萎えしぼんでしまう。
 (Years may wrinkle the skin but to give up enthusiasm wrinkles the soul)」

 私は会の発足時から種々関わらせて頂き、会長職としては2度の開催の機会を得ました。第5回日光脳腫瘍カンファランスについて 開催期間(昭和61年12月7日ー9日) 
 この時は closed の会であり、参加人数は100名程度であった。
 主な主題は放射線治療による正常神経細胞へのダメッジを如何に抑えるかが問題になっていた時代で、米国カリフォルニア大学放射線医学研究所からJohn R.Fike教授迎えてRadiation induced Brain Damage について、さらに Hyperthermiaの腫瘍細胞に対する影響、Oncogeneと脳腫瘍など、当時の最新研究の特別講演をいただいた。
 第9回日本脳腫瘍カンファランス 開催期間(平成12年11月12-14日) 参加者 200名以上
主題:1)乏突起神経膠腫の基礎と臨床
   2)悪性神経膠腫の治療成績向上を目指して
   3)転移性脳腫瘍の標準的治療とはなにか
   4)遺伝子治療の21世紀への展望
 乏突起神経膠芽腫は当時の染色体解析で1p/19q lossのある腫瘍は薬剤感受性が強い事、さらには膠芽腫の治療の効果を上げるための討論が昼夜通して実施された。転移性脳腫瘍もやっと議論の対象となり、原発巣の違う脳転移の治療をどう考えるかを中心に行われた。さらに将来に向けた遺伝子治療の可能性についても基礎研究を中心に議論が白熱した。
 本学会が青春の気迫を失わず益々発展されるように祈念する。


 
会場:箱根プリンスホテル龍宮殿   左より3人目佐野教授 4人目野村会長
 
 
ポスターセッションでの討論:時間制限なく夜半まで
続いた (写真は全て第9回のカンファランス)
 


古典に学ぶ
第6回日光脳腫瘍カンファレンス (1988 富士ビューホテル(河口湖))
第5回日本脳腫瘍カンファランス (1996 箱根ホテル小涌園)
松谷 雅生  日本脳腫瘍学会初代理事長
五反田リハビリテーション病院  埼玉医科大学名誉教授
 

 困ったときは経験者に相談する、生きていく上での原則である。腫瘍の本質を学ぶ最良の教科書は、先人達が残してくれた膨大な剖検記録である。筆者の経験を記す。
脳神経外科医となって3年あまりを過ぎた頃、半年間に再発astrocytoma 3症例を受け持った。再手術の病理診断はglioblastoma であった。astrocytomaの再発がなぜglioblastomaになるかの疑問を持ち、脳腫瘍病理学のバイブルとも言われたZülchとRussellの教科書を開くと、「astrocytomaは自然経過としてglioblastomaへ転化する」との記述はあったが、“証拠”となるような事実は記載されていなかった。いろいろ調べているうちに1947年のScherer論文(Cerebral astrocytomas and their derivatives, Am J Cancer)に行き当たった。そこには、①125例の大脳半球glioma剖検例においてastrocytomaの姿で死亡した症例はわずか5例であった、②膠芽腫の中には、その基盤としてastrocytoma の姿をもつものがあり、これらは“secondary glioblastoma”と呼ぶのがふさわしい の2点が記載されていた。現在のglioblastomaの臨床像と生物像解析の最初のきっかけとなった貴重な論文である。この経験が古典の大切さに目を開かせてくれた。その後臨床上の疑問が出るたびに、古い時代の剖検報告にその解答を求めた。
松果体あるいは神経下垂体発生のgerminomaへの放射線治療は全脳室をtargetとすることは、ようやく国際的に認知されてきたが、わが国からのこの主張を欧米の全脳照射派に納得させることは至難の技であった。稀少腫瘍のため比較試験は困難であり、説得する科学的根拠に乏しかった。この問題を解決したのも貴重な剖検所見である。Komatsuら(1971)とDegiroramiら(1973)の松果体部germinomaの剖検所見をまとめると、境界不明瞭な腫瘍が第3脳室の脳室上衣下層を進展し、視床間槁を経て第3脳室前半部の神経下垂体部に至る。脳室上衣下層には複数の小腫瘍結節が観察されている。中脳水道から脳幹にかけてのクモ膜下腔に細胞浸潤が見られ、中脳被蓋および視床への浸潤傾向がある。Kageyama (1971)、Fukushima(1958)らの神経下垂体部腫瘍の剖検所見も本質的には松果体部腫瘍と同様であり、腫瘍は同じく境界不明瞭で神経下垂体(視床下部、下垂体茎、下垂体後葉)内を浸潤性に発育する。下垂体前葉、視神経、視交叉にも容易に浸潤し、時には海線静脈洞内におよぶ。従って、放射線照射範囲は腫瘍部に加えて松果体部、トルコ鞍、第3脳室および側脳室を完全に含む全脳室照射が必要であるが、全脳、全脊髄照射は原則的には不必要であり、当然、腫瘍局所照射単独では再発を避けられない。
Medulloblastomaに全脳全脊髄照射を必要とする根拠も、臨床経験(Paterson, 1953)と剖検所見(所、1959)から明らかである。後者の記述を原文のまま記す。「剖検では、原発部から脳膜に沿ってまことに広汎に、あるいは脳底部を視神経交叉部まであたかも脳底脳膜炎渗出物をまねて拡がるかと思うと、また脊髄周囲を外套状に取り囲んで馬尾部までほとんど完全に脊髄を包む。見事です。」
 最近の分子生物学的知見からの新しい病態解析による成果のいくつかには、過去における綿密な病態観察や剖検結果がすでに示唆していたものがある。このような事例に遭遇するたびに、いまさらながら先人の偉大さに敬服し、過去と現代が最新科学を通じて強く結びついたことに感動している。



明けない夜はない
第8回日光脳腫瘍カンファレンス (1990 唐津シーサイドホテル)
第10回日本脳腫瘍カンファレンス (2001 別府湾ロイヤルホテル)
田渕 和雄  佐賀大学名誉教授・小城市病院事業管理者
 

 先月(2022年8月10日), 文部科学省科学技術・学術政策研究所(NISTEP)は、自然科学(生物学や物理学など22分野)で過去3年間(2018~2020)に発表され、引用が多かった論文の数を国際的に比較調査した結果を公表した。それによると日本は隣の韓国にも抜かれ、先進諸国の中で過去最低の12位に陥落し、1981年にデータを取り始めて、初めてトップ10から脱落した(グラフを参照)。一方、論文の総数でみると、同じ3年間の平均で日本の論文数は67,688本で、前回調査から一つ順位を下げ、5位に後退していることなどが、NHKを始め全国紙でも報道された。今回の調査結果について、政策研究大学院大学の永野博客員研究員は、「論文を書く若い研究者が増えないと、論文も増えない。博士号の取得者の数はほかの国では増えているのに、2006年度以降の日本ではどんどん減っている。人に投資しないのが一番の問題で、危機感が足りない。また博士号を取ってもなかなか就職できないのは日本だけで、社会で働けるように育てた人材がうまく活躍できるシステムにしないといけない。産業界と大学の間の協力が今ほど求められているときはなく、博士号を取得する人を増やすとともに、その後の支援も含めて真剣に考える必要がある」と、現状に対する問題点を厳しく指摘している。先日の全国紙の社説(日経新聞2022年9月8日)でも、論説者は日本の国力を損ねる若者の「博士離れ」の現状を、極めて深刻な国家の危機と捉えている。日本発のイノベーションを起こし科学技術力を取り戻すには産官学が協力して博士を育み、それを活かす社会に転じる必要があると力説し、博士に冷たい国に明るい未来はないと断言している。
 ご存知のように医学に関わる基礎研究の潮流は、今世紀初頭頃からゲノミクスやプロテオミクスなどで得られた知見を基に、トランスクリプトミクスや機能ゲノミクス、さらに機能的プロテオミクスへと目覚ましい発展を遂げている。近い将来、それらと密に関連したバイオインフォマテイクスの進化によって、生物学的データセットのより詳細な解明と、そのソフトウエアベースのツールを開発する学際的な分野の一層の発展が待たれる。そしてその先には、いずれ脳腫瘍に関してもその固有の生物学的データセットに基づいた、画期的な治療法の開発が可能になると考えられる。一般に研究の裾野が広い(研究に携わる人数と論文数がより多い)分野ほど、より活発な研究環境をもたらすと思われる。そこで、まことに身勝手ですが、頂いたこの寄稿の機会に日本脳腫瘍学会会員の諸先生へ、敢えて提案をさせて頂きます。それは、ある年数(例えば5年)毎にその年の日本脳腫瘍学会の会議録(各演者が発表した成果をまとめた論文集proceedings)の作成・出版を主宰学会長の責任で進める企画です。嘗て私達が担当させて頂いた2回の学術集会後、当時の演者の諸先生の温かいご理解と献身的なご協力によって会議録を迅速に上梓できたその痕跡を、僭越と不躾を承知の上で以下に記載致します。
第8回日光脳腫瘍カンファレンス (1990年11月7日~9日、佐賀)会議録/Biological Aspects of Brain Tumor:Proceedings of the 8th Nikko Brain Tumor Conference, Karatsu(Saga)1990、Edited by K. Tabuchi, Springer-Verlag 1991
第10回日本脳腫瘍カンファレンス (2001年12月2日~4日、大分) 会議録/ポストシークエンス時代における脳腫瘍の研究と治療、田渕和雄、白石哲也編集、九州大学出版会2002
 以上、冗長で独善的な文脈となりましたが、要は「明けない夜はない」をしっかりと心に刻み、これからも各人各様に医学(脳神経外科学)の進歩に多少なりとも寄与する気概を持ち続けたいものです。


質の高い科学論文数の国際比較(2000~2020)文部科学省科学技術・学術政策研究所の資料に基づく
(読売新聞より転記、2022年8月15日)



日光脳腫瘍カンファレンスの思い出
第9回日光脳腫瘍カンファレンス (1991 和倉温泉)
第7回日本脳腫瘍カンファレンス (1998 ホテルアローレ(加賀))
山下 純宏  金沢大学名誉教授
 

 もう大分昔のことになりますが、日本脳腫瘍学会の前身である、日光脳腫瘍カンファレンス、日本脳腫瘍カンファレンスの頃のエピソードを紹介させて頂きます。
 私が1991年に第9回日光脳腫瘍カンファレンスを和倉温泉にて開催させて頂いた時のお祝辞の中で、佐野圭司先生は、会の名称について、「先が見え難い悪性脳腫瘍の研究に sunshine を当てるために「日光」の名前を付けたままでも一向に構わないと思う」とコメントして頂きました。先生は医学のみならず、世界の歴史、哲学、文学全ての分野で深い造詣をお持ちの方で、国際的にも広く敬愛されていました。この時の佐野圭司先生のスピーチを大変印象深く記憶しています。
 京都大学で脳腫瘍の研究に携わっていたときに、悪性脳腫瘍に関する厚生省班会議や製薬会社の新薬の治験などに参加しませんかと親切に誘って下さったのは、当時国立がんセンターに勤務しておられた高倉公朋先生でした。高倉先生は実は京都大学の医学部進学課程に入学され、教養課程を京都で過ごされたという経歴をお持ちでしたので、京都に対して懐かしみを感じておられるようにお見受けしました。私の方も同窓の先輩のような親しみを感じていました。東京大学、東京女子医科大学に移られた後にも色々と暖かいご配慮を頂きました。
 永井政勝先生のお陰で、1978年9月第8回国際神経病理学会(ワシントン)への研究調査団として広島大学の梶川博団長代行と共に訪米し、旅程の最後にUCSFのBrain Tumor Research Centerを見学し最後の日には星野孝夫先生にご自宅で大変ご歓待して頂きました。それがご縁となり翌年夏に1ヶ月間星野先生の所へ短期留学させて頂きました。組織化された研究設備の充実、研究スタッフの豊富さに感心させられました。星野先生は既に“cell kinetics” の分野の世界的第一人者として活躍され、その頃には培養グリオーマ細胞の“spheroid”を用いた研究を精力的に展開しておられました。
 1998年に第7回日本脳腫瘍カンファレンスを片山津温泉ホテルアローレにて開催させて頂きました。ゲストにお招きした、Prof. Paul Kleihues は当時フランス・リヨンの International Research Agency of WHO (IRA) の所長を務めており、大垣比呂子女史等と共に当時新しく発表された脳腫瘍のWHO国際分類の委員会を主導する立場にありました。当時彼の下に金沢大学脳神経外科から立花修、東馬康郎両君が留学していました。丁度 primary glioblastomaとsecondary glioblastomaが初めて区別され、世界的にもホットな話題となっていました。
 私が初めて Prof. Kleihuesにお会いしたのは、1972年に英国留学から帰国の途中Prof. Gillingham に紹介されて、FreiburgにProf. Mundingerを訪ねた時でした。定位脳手術的にバイオプシーした脳腫瘍の迅速標診断のために手術室へ足を運んできた堂々とした体格の若き日の Prof. Kleihuesにお会いしました。 Max-Planck-Institut で永井政勝先生と一緒に研究に従事されたようです。私の教室から数名の後輩がリヨンの IRA へ留学した時にも、永井政勝先生のご支援を頂きました。Prof. Kleihues がチューリッヒ大学の医学部長と IRA の所長を兼任していたときに、Prof. Yasargil の後任教授選考の責任者として、同級生の米川泰弘君の身辺調査に来たことがありました。Prof. Kleihuesは実にエネルギシュな方でした。序にここで米川泰弘君について私の哀悼の気持を記しておきます。日本語でも英語でも簡単な仕事ではないのに、慣れないドイツ語で患者診察、家族への説明、病棟回診、学生講義、教授会・各種委員会での質疑などの大変な業務を最後まで勤め上げた努力に対して深甚の敬意を払いたいと思います。

  
左より、田渕和雄、福井仁士、小生、Prof. Kleihues、永井政勝、早川徹、阿部弘の各氏 1998年
第7回日本脳腫瘍カンファレンスにて


脳腫瘍研究に関する想い出
第4回日本脳腫瘍カンファランス (1995 大津プリンスホテル)
早川 徹  大阪大学名誉教授(脳神経外科)
  
 

大阪大学における[脳神経外科講座]の発足は、当時の[学園紛争]の煽りを受けて他大学に比して大幅に遅れ、最上平太郎先生が初代教授に選出されたのは、昭和47年(1972年)であった。
[講座]発足当初は、教室員が少なく、臨床も多忙で、海外留学より帰国した生塩之敬君(後に熊本大学脳神経外科教授)等と相談して、「学術研究」に関しては、「脳腫瘍研究グループ」と「脳循環障害研究グループ」を共同運営することとし、研究手法の共有・交換活用を行なうとともに、研究成果の発表・論議なども共同で行い、少数精鋭の研究室員の協力・努力で、次第に研究が軌道にのっていった。

[研究]として忘れ難いのは、恩師:最上先生が[教授就任]前に留学されていた米国MGH(Massachusetts General Hospital)に、最上先生の後任として留学・研究に従事されていた阪大第二外科:森 武貞先生(後に阪大第二外科教授)が、世界で初めて「脳特異蛋白」の抽出に成功され、[Astroprotein]と名付けられた。(Mori T., Mogami H., Denda P. et al: An astrocyte-specific cerebroprotein in normal brain and human glioma. Neurol Med Chir 10:103-104, 1968.)
森先生が帰国された後、私ども「脳神経外科研究室」は、先生のご指導を受け、脳腫瘍の免疫組織学的診断や同蛋白の髄液内濃度測定法の開発による脳損傷診断など、多彩な研究が展開された。
しかし、その後、[同蛋白]が米国の別のグループで発見された[GFAP(glial fibrillary acidic protein)]と同一物質である事が判明し、今や[GFAP]の名称が国際的に通用することとなった。
私どもの研究推進力の不足というか、国際的研究競争力の差か残念に思っている。

*因みに、40年余り前に開催された[第一回日光脳腫瘍カンファレンス(1980年、永井政勝会長)]に参加し、「脳腫瘍組織と[Astroprotein]に関する教室の研究成果を報告させていただいたように記憶している。
[日光脳腫瘍カンファレンス]が、その後大きく発展して[日本脳腫瘍学会]となり、研究から臨床、治療方針の策定、若手人材の育成など、脳腫瘍の臨床・研究を牽引する学会となったのは、大慶であり感無量である。

今や[情報革命の時代]であり、医学も医療も、急速に発展しつつある。脳腫瘍学並びに脳腫瘍診療の一層の進歩を祈念している。

(2022年9月23日記)





日光脳腫瘍カンファレンスの想い出
   第20回日本脳腫瘍学会 (2002 ホテルニューオータニ熊本)
佐谷 秀行  藤田医科大学がん医療研究センター
会長時:熊本大学医学部腫瘍医学講座所属
  
 

 1984年2月29日、脳外科研究室の窓からみる神戸の街は雪に霞んでいて、先輩の穀内先生は日光脳腫瘍カンファレンスが開催される六甲オリエンタルホテルまで辿り着けるか心配顔でした。私はまだ研究を始めたばかりの大学院生だったので何も分からず、「六甲山であるのにどうして日光なんですか?」なんてピント外れな質問をしたことを今も覚えています。当時日光脳腫瘍カンファレンスはクローズドのミーティングであり、当然研究初心者の私はお留守番でした。少しは結果を出して、この特別な響きのあるカンファレンスにいつか参加したいと胸を躍らせたものです。研修医時代に先輩から手渡された「脳腫瘍の生長解析」という名著を書かれたUCSFの星野孝夫先生が創始者のお一人であったことも、私がこのカンファレンスに憧れた大きな要素でした。その2年後に鳥羽で行われた国際小児脳腫瘍学会で憧れの星野先生と初めてお目にかかり、そして箱根で野村和弘先生が開催された第5回日光脳腫瘍カンファレンスで再度お目にかかってUCSFへお誘い頂いたことが、私ががん研究を生涯の職とする全ての出発点でした。おそらく多くの脳腫瘍学会の重鎮の先生方も、日光脳腫瘍カンファレンス→日本脳腫瘍カンファレンス→日本脳腫瘍学会と変遷する中で、貴重な出会いと新しい発見とモチベーションの高揚を経験され、それが現在のお仕事の起点となっていることでしょう。
 40回の学会の歴史の中で忘れることができないのは、「日光」から「日本」脳腫瘍カンファレンスに改名した1992年の第10回集会です。星野孝夫先生はUCSFから杏林大学に移られ、この記念すべき第10回カンファレンスを思い出の地である日光で開催されました。当時私はMDアンダーソンがんセンターの神経腫瘍学部門でスタッフとして研究を行っていましたが、生涯の恩人である星野先生が主催される特別なカンファレンスだったので、久しぶりに帰国して出席することにしました。しかし星野先生のお身体は再発した癌に蝕まれ、一歩も歩くことができず、病院から寝台車で会場に来ておられました。控室では点滴をしてベッドに横たわり、目を閉じたまま一言も発することのなかった先生ですが、開会になると車椅子で会場に登場され、あの鋭い眼光でオーディエンスを見渡しながら、見事に開会の挨拶をされました。脳腫瘍撲滅という使命を果たすために、文字通り命を懸けてこられた星野先生の凄まじい生き様はどんな言葉より、どんな書物より、私の心に突き刺さりました。そして突き刺さった星野先生のご遺志は、30年経った今も、ややもすれば忘れそうになる自身の責務を思い出させてくださいます。
 幸運にも私は、日本脳腫瘍学会に改名された最初の学術集会を、2002年11月に熊本で開催させていただきました。当時熊本大学脳神経外科教授であった生塩之敬先生が、第1回のアジア脳腫瘍学会(ASNO)を主催されることになったので、2つの学会を連続して熊本で開催することにしました。そして、この時から学会はクローズドから誰もが参加できるオープンなフォーラムへと変わり、以後20年皆さんのご尽力で素晴らしい学会に成長いたしました。初期に理事を務めた者として、心から感謝申し上げます。
 私は現在、日本癌学会の理事長を拝命し、がん制圧を目指した研究の推進とがんに関わる正しい情報の発信を行うという活動に力を注いでいますが、私の中で研究を始めたモチベーションの原風景は、実は日光脳腫瘍カンファレンス、つまり日本脳腫瘍学会にあります。脳腫瘍という究極の敵に対して戦いを挑む若い研究者や医師達が、この学会に集まることで新たな知識や技術やネットワークを得て、悪性脳腫瘍の制圧という人類の火星着陸にも等しい困難な事業をいつか達成してくれることを願ってやみません。



Keep learning, Keep updating
第21回日本脳腫瘍学会 (2003 淡路夢舞台国際会議場)
テーマ 「研究から臨床へのトランスレーション」
有田 憲生  伊丹せいふう病院 会長時:兵庫医科大学脳神経外科
 

 司馬遼太郎の小説に「菜の花の沖」があります。多作な作家ですが、「坂の上の雲」「翔ぶが如く」などと較べると、「菜の花の沖」はやや発行部数は少なく、8位にランクされている作品です。江戸後期淡路の廻船商人高田屋嘉兵衛を主人公とした歴史小説です。「淡路の島山は、ちぬの海(大阪湾)をゆったりと塞ぐようにして横たわっている。」の書き出しで始まります。大阪湾は古くから「茅渟(ちぬ)の海」と呼ばれ、好漁場とされてきました。私が本学会の会長をお引き受けしたのは2003年(第21回)です。会場は淡路島の兵庫県立夢舞台国際会議場、会員の皆様にはウェステインホテル淡路(現グランドニッコー淡路)に宿泊していただきました。会場は東経135度の子午線が通る自治体としては最南端に位置する東浦町(現淡路市東浦)の丘に位置し、目の前に「菜の花の沖」の書き出しそのまま光景が眺められました。全国規模の学会会長は、分子脳神経外科学会、日本間脳下垂体腫瘍学会、日本頭蓋底外科学会でも、その後務めさせていただきました。一番熱を込めて準備したのは本会でした。私が本会にはじめて参加したのは、前身である第2回(1982年)日光脳腫瘍カンファランスでした。前年の年末に海外生活から帰国後、8月に専門医試験を受験、開放されて楽しい会に参加できたと記憶しています。留学先のPETを用いた膠芽腫のグルコース代謝画像を発表しました。本会には、それ以後第33回(2015年)まで皆勤でした。第21回では「研究から臨床へのトランスレーション」をテーマとして取り上げました。グリオーマの遺伝子解析に関する演題発表が出始めた時期です。しかしまだ何がグリオーマの診断に関係するか、治療に結びつくか、不明な頃です。
 今回、会長から記念原稿作成を依頼されたのですが、近年めっきり文章を書く機会が減っています。A4一枚のスペースに、シベリウス交響曲7番のように、切れ目のない、凝縮された内容を盛り込もうと試みましたが、このような散文になりました。思い出してみると、手術、外来診察、会議に、いつも原稿の締め切りと講演・発表の準備に追いまくられ、30年以上を過ごしてきました。2013年脳神経外科から一応引退し、急性期病院で丸7年、さらに回復期リハビリ病院で2年半ほど院長職を務めています。まだ前病院で外来診察を続けていますが、生検しか出来ていない運動野に及ぶ膠芽腫で、CRを維持し5年以上生存する患者さんが出現する時代になりました。わずか25年ほど前には、こちらの武器はACNU、IFN-βのみで、腫瘍が画像上縮小、消失した例は記憶にありません。COVID-19では、mRNAワクチンが歴史上はじめて使用されています。肺腺癌では、脳転移があっても経口分子標的薬で5年以上生存している症例があります。画期的な治療法が出現し、膠芽腫の生存期間が劇的に改善されるまで、「Keep learning, Keep updating」を継続できれば、と思っています。



日本脳腫瘍学会の運営方式の意義
第22回日本脳腫瘍学会 (2004 松島ホテル大観荘)
テーマ  1. 分子生物学診断は病理学的診断を超えられるか
  2. Neuro-oncologistの養成
  3. 新しい治療法の現状と発展
嘉山 孝正  国立がん研究センター名誉総長 山形大学名誉教授
 

 日本脳腫瘍学会は、日光脳腫瘍カンファランスを9回経てから、その後日本脳腫瘍カンファランス、日本脳腫瘍学会学術集会と名前を変えながら、今回の成田会長で40回目の学術大会を迎える。この間、学会創設初期のがんに関する研究では他の分野と同様に、ゲノムの介入は未開拓で、臨床でも治験の方法論も未熟だった。従って、現在でも癌あるいは神経膠腫の生物学的動態は不明の事が多々あるが、当時は当然ではあるが今以上に大変プリミティブな議論に満ちていた。しかし、学会参加者は、情報が少ないところを却って想像力を駆使して学問を語り大変楽しい議論をしていたと思う。どんな時代でも分野でも創設時からの沢山の事物を記録としてとどめることは大変重要なことである。今回、成田会長が日本脳腫瘍カンファランス40回を記念して学会に関係する多方面からの事物を集める企画を組んだことは未来の学会員の教育、研究、臨床の発展に大いに貢献すると考える。成田会長の発想と企画力に敬意を表する。
 私は第5回日光脳腫瘍カンファランス(野村和弘会長:国立がんセンター、1986年)からの参加なので、初期から全てを知っているわけではないが、歴史が浅い時代から参加した者として記載する。当時の参加者は脳神経外科医でありながら難解な基礎科学を勉強研究していた同好の士の集まりのようで、カンファランスは公募に応じて参加するのではなく、大変限られた人々だけが案内を頂き参加していた。テーマ、演者、招待者は会長が決定するのは他の学会と同様であるが、特徴的なのは参加者が全員同じ宿、会場に泊まることである。おのずと、参加者は休憩を取らないで、全員で議論に参加している事。また、夜はアルコールとつまみでポスターを中心に顔を突き合わせて議論することになった。この運営の仕方は時代が変わろうが、歴代の会長は、ほとんど変えてこなかったと思う。おおよそ半世紀前の学会は学問上の戦いの場であり、親しく懇親することは殆どなかった。そんな日本の学会の雰囲気中にあって、同好の士が集まるサロン的雰囲気であった。従って、研究発表の内容を細かい方法論等まで質問でき、また教え合うことができる学会であり、まさにカンファランスであった。専門性が深い本学会は、研究者が親友のような関係でいるほうが研究が進んでいくのではないかと思っている。その為には、今後もこの先達が作った本学会の特徴を踏襲し、臨床家でも基礎学者に比肩して活躍できる学会を継続して頂きたいと思っている。

第22回日本脳腫瘍学術集会(2004年)
宮城県塩釜:松島大観荘
佐野先生以外皆さん学生の雰囲気で勉強です。


第40回日本脳腫瘍学会学術集会に寄せて
第25回日本脳腫瘍学会 (2007 ホテルグランパシフィックメリディアン(東京台場)
渋井 壮一郎  平成横浜病院 会長時:国立がんセンター中央病院脳神経外科)
 

 本学術集会も今回40回を迎えました。米国でのU.S. Conference on Brain Tumor Research and Therapy (Asilomar Conference)を手本として、当時、California大学San Francisco校に在籍されていた星野孝夫先生らを中心に国内でも同様な集会を開こうと企画され、1980年に日光プリンスホテルにて第1回日光脳腫瘍カンファレンスが開催されました。その経緯については、本学会ホームページに永井政勝先生が寄稿されていますので、ご参照ください。
 私自身は、第2回のカンファレンスから毎回出席させていただいており、毎年最も楽しみにしている学会のひとつです。まだ、30歳そこそこで初めて出席させていただいたときは、諸先輩方の熱心な討論や夜遅くまで続くPoster and Wine Sessionにただただ圧倒されるばかりでした。もちろん、大先輩方と直接お会いして話ができる喜びもさることながら、全国で活躍する同世代の先生方と知り合うことができたのも貴重な財産となりました。第3回の集会が六甲山で開催されたときは、「日光」の名称を残すため、「六甲日光カンファレンス(生塩之敬会長)」とされ、以降「阿蘇日光カンファレンス(福井仁士会長)」「箱根日光カンファレンス(野村和弘会長)」等々と呼ばれたのを懐かしく思います。
 出席希望者が増え、semi-closedから自由参加になった1992年の第1回日本脳腫瘍カンファレンスは私の中でも記憶に残る集会のひとつです。当時、体調を壊されていた星野孝夫先生が会長を務められ、10年ぶりに日光で開催されましたが、ジャケットの下に点滴バッグを忍ばせ、少々かすれ気味の声で開会の辞を述べられた先生の姿は鬼気迫るものがあり、この学会を何としても成功させたいという熱意をだれもが感じたことと思います。
 2002年の第20回からは、完全に学会形式をとり、私も2007年の第25回を主催させていただきました。それまでAsilomarを手本に、郊外のリゾート地で開催されていましたが、当時、東京のリゾート地とも言えるような雰囲気があったお台場を会場にしました。その学会での懇親会の司会をフジテレビのNアナウンサーにお願いしたところ、多くの出席者がいわゆるツーショット写真を撮ろうと列をなしたのを楽しく思い出します。
 その後も各地で全員が可能な限り同じホテルに宿泊し、早朝から深夜まで、脳腫瘍について語り合う形式が取られ、今回の成田善孝先生が主催される学会でもその形が踏襲されています。脳腫瘍に興味を持つ研究者が一堂に会するこのような学会は他に例がなく、出席者全員が充実した3日間を過ごすことのできる学会ですが、出席者増加に伴い、同じ形式での開催が困難になりつつあります。主催する立場としてはいろいろな工夫が必要とは思いますが、可能な限り従来の開催形式を続けていただきたいと思っています。脳腫瘍を基礎から見直し、今なお治療困難な悪性脳腫瘍の治療成績を改善していくためにも、本学会がますます発展していくことを切に願っております。



日本脳腫瘍学会 - Motivator for My Brain Tumor Research
第26回日本脳腫瘍学会 (2008 道後温泉大和屋本店)
大西 丘倫  和昌会貞本病院脳神経外科
会長時:愛媛大学大学院医学系研究科 脳神経外科
 

 日本脳腫瘍学会は、日光脳腫瘍カンファレンスから発展し、悪性脳腫瘍の臨床・基礎研究の最先端を討議する学会です。私が悪性脳腫瘍の研究をライフワークとするようになったのは、この前身の日光脳腫瘍カンファレンスへ参加できたことがきっかけです。卒後5年の時に、生塩先生主催の第3回日光脳腫瘍カンファレンスが六甲オリエンタルホテルにて開催されました。丁度、この頃、脳腫瘍の研究を始めたばかりで、他の癌でMGMT発現の癌細胞はアルキル化抗癌剤に耐性になることを知り、悪性グリオーマのACNU耐性にMGMTが関与しているのではないかと、ACNU耐性株を作成しMGMTの効果を調べていました。本学会では最新の脳腫瘍研究が話されるということで、是非、会に出席したかったのですが、人数制限もあり願いは叶いませんでした。しかし、何としても会に出席したく、会長の生塩先生に頼み込んだ所、「会員の懇親会があるので、その準備を手伝ってくれれば会に参加してもよい」と言われ、懇親会用の日本酒を車に積んで雪の六甲道を踏破することで、最新の脳腫瘍の話を聞くことができました。懇親会の余興で、利き酒大会を開くこととなり、地元の灘の銘酒を始め、各地域の銘酒も合わせ、計5種類の日本酒の正解率を競うことで、優勝は故佐野圭司先生でした。それも全酒正解され、佐野先生の多能ぶりに改めて感嘆させられました。
 日本脳腫瘍学会は、元々、脳腫瘍の国際学会である「International Conference on Brain Tumor Research and Therapy」(Asilomar Conference)の日本版であり、この国際学会は日本脳腫瘍学会とリンクしています。この会で研究の成果を国際的に発表・討論ができ、海外の多くの研究者と交流を深められることから、是非この会で発表できるようにと研究へのモチベーションが上がりました。また、この会は海外でも滅多に行けないリゾート地で開かれることが多いので、学会発表とは別の楽しみもある学会です。
 脳腫瘍の研究は大学を退任した今も、細々と続けています。その基盤となっているのは臨床の現場から得られた疑問への解答を見つける方法を考え、文献を網羅し、仮説が真実と信じて諦めず研究を継続して行くことにあるかと思います。当然ながら多くの人が、同じ疑問を持つと思いますので、目的を同じとする人達が集まる本学会は、情報を集めることにおいてきわめて貴重で有用な場となるかと思います。40年間、諦めずに苦しくも楽しく研究に携わってこられたのは、日光脳腫瘍カンファレンスとの出会いから日本脳腫瘍カンファレンス、日本脳腫瘍学会での活動と素晴らしい仲間との出会い、そして脳腫瘍に熱心に向き合い指導してくださった先輩の先生方の助言および支援があったからこそです。今後の脳腫瘍の研究の更なる発展に本学会が寄与することは疑いの余地もありません。若い先生方がこの会に参加することで、新しい発見のきっかけができること、益々、研究の成果が上がることを祈念しています。

  


脳腫瘍学会 歴代会長 所感
第27回日本脳腫瘍学会 (2009 りんくう国際会議場)
宮武 伸一  大阪医科薬科大学・関西BNCT共同医療センター 
会長時:大阪医科大学脳神経外科
 

 成田先生から所感を投稿するよう求められ、何にしたものかと、考えていました。まず顔写真を添付するようにとの仰せでしたので、その写真をPCの中から引っ張り出していますと、この写真が出てきました。
 エクスカーションの柱として据えた、京大原子炉ツアーのバスを降りたところです。なんと今、一緒に仕事をしている鰐渕先生が参加してくれていました。鰐渕先生の後ろには、台湾からの参加者も映っています。
 私をBNCTの道に引っ張りこんだ、小野公二先生も関西BNCT共同医療センターで一緒に働いており、ある意味「腐れ縁」ですね。
 何をしても勝ち目のないGBMに叩きのめされながら、まずBNCTというとっかかりに出会って40年余り、このような戦友に恵まれ、戦いを続けています。そうそう、Chinot先生をこの会にお呼びし、脳放射線壊死に対するベバシズマブの使用も深く議論を進められました。
 まだしばらく働かないといけません。




これからの日本の脳腫瘍学会を背負ってゆく先生方へ量より質を
   第28回日本脳腫瘍学会会長
(2010 軽井沢プリンスホテルウェスト)

西川 亮
  (練馬駅リハビリテーション病院、埼玉医科大学名誉教授)

会長時:埼玉医科大学国際医療センター脳脊髄腫瘍科
  
 

 2010年11月28-30日に第28回学術集会を開催させていただきました。場所は軽井沢プリンスホテルウェスト。晩秋の軽井沢は身の引き締まる思いだったことを覚えています。ゲストはWebster Cavenee先生とEric Bouffet先生という尊敬するお二方でした。学術集会としては、特にテーマは定めず、ほぼ通常の内容・形式を踏襲しましたが、一点だけ試験的な試みとして、一人一人の口演に原則15分使っていただきました。8分とか10分では十分に語っていただくには短く、討論も不十分だと思っていたからでもあり、欧米の学会では15分程度の口演を並べることも少なくなかったからです。これはしかし、今一つだったかもしれません。高名な先生でも15分を持て余されたのか、後半の5分程は教室の基礎研究の紹介などをされた演題もありました。
 これからの日本の脳腫瘍学会を背負ってゆく若手の先生方へ。日本脳腫瘍学会学術集会で15分の口演時間を持て余さないような発表が出来るように精進してください。毎年欠かさずに発表しなければ、などと考えなくても大丈夫だと思っています。ちょいと〇〇について調べてみた、とか、昨年までの研究に少しデータを追加した、といったご発表は、いつも何かしら脳腫瘍学会で発表している熱心な先生、という印象を与える以外には、あまり意味がないように思います。学会に出張するためにはポスターでも演題を持ってゆく必要がある場合はあるかと思いますが、しかし、たとえ数年かかっても15分以上しゃべり倒せる研究をしてください。研究は量ではなくて質、ということです。お前はどうだったのかと問われれば、私も若い時は随分とやっつけ仕事をしてきました。ですので、これは自戒を込めて、ということとご理解ください。
 若手の先生方のますますのご活躍によって、膠芽腫が治癒する日が来ることを祈っております。



第29回日本脳腫瘍学会開催の想い出
   第29回日本脳腫瘍学会 (2011 下呂温泉水明館)
若林 俊彦  名古屋大学名誉教授 医療法人五一六五
ナゴヤガーデンクリニック理事長・院長
  
 

 本学会の思い出となると、やはり、2011年11月27−29日に下呂温泉の水明館で第29回日本脳腫瘍学会を開催させていただいたことが特に印象深い。小生が名古屋大学脳神経外科学の教授に就任して初めての参加となった2008年の第26回学会(会長:大西丘倫先生・道後温泉大和屋本店)のポスター会場で、松谷雅生先生が声を掛けて来られた。「若林君が教授になってくれて本当によかった。それで早速、本学会の会長に推挙するので是非とも頑張ってもらいたい」との激励に、「松谷先生、私はまだ教授になったばかりで全国規模の学会は手がけたことはありませんが・・・」と、思わず少し身を引いたのだが、「それでは思いっきり君らしい学会を考えてください」とニコニコしておられた。幸いにも、当教室には新進気鋭の脳腫瘍研究班が多数在籍していたので、まずは、彼らに相談すると、さすがに様々な提案が飛び出してきた。「たくさんの優秀な演題がいただけるように全国に名の通って来たくなるような会場を選びましょう」、「世界的に有名で誰でも知っている脳腫瘍研究の権威を呼びましょう。そして膝を交えての討論会を企画しましょう」、「深夜まで討論を続けるミッドナイトセッション設けましょう」、「ワインは飲み足りないことがないほどたくさん用意しましょう」、「朝食、昼食、夕食、夜食も全て一堂に会しましょう」、等々。まずは、全国に名の通っている場所で、会員400名程が一堂に介して夜を徹して討論ができる会場探しには、医学部ソフトテニス部の先輩で岐阜県観光大使の中尾昭公先生(当時名古屋大学第二外科教授)が、下呂温泉の水明館の大女将である滝晴子さんに直接交渉してくれて破格の条件で引き受けてくれた。のちに会員からは、「本当にここが学会場ですか?このまま申請したら、あなたは温泉に行くのですか、と事務部に嗜められました」などの問い合わせがあった。ここなら、400名のメンバーが一緒に大広間で食事ができるし、料理も評判が良い。そして、離れの講演会場も遅くまで使用できるし、ポスター会場は風光明媚な会場が準備できる。そして、何よりも24時間3つのタイプの違う温泉を利用することができる。そして、ワインも400本用意した。当日は、409名もの会員が集い、大変賑やかな学会となった。秋の深まる紅葉が最高の演出をしてくれ、学会はなんと午前4時まで続いた。会場で床に寝てしまう者、座長(藤巻高光先生と松谷雅生先生)がワインボトルを1本持って、座長席に上がり、「この1本を飲み終えるが早いか、このセッションが終わるのが早いか」と宣言し、途中、1演題(この演題が、Germ cell tumorに関する澤村豊先生の演題であった)に1時間もの討論時間を費やし、その間、会長の私が聴衆席で居眠りをしている写真を盗み撮られるなど、いろいろなハプニングが続出したが、帰りしなに、早川徹先生が、「楽しかった!世話になった!」と声をかけて下さったときには、胸に込み上げてくるものがあった。
 さて、自身の脳腫瘍研究歴を振り返ると、1981年の春に、景山直樹先生に出会い、吉田純先生の元で研究に従事することが決まった経緯からすると、自分も40年間、脳腫瘍研究に携わってきたことになる。その間、脳腫瘍の分子生物学的解析による発生期限の追及、各種技法を駆使しての診断技術の向上、覚醒下手術をはじめとした手術支援技術の進歩、化学療法の選択肢の拡大、放射線治療の手技の多様化、免疫療法の各種研究、など、どの分野も格段の進歩を遂げている。しかし、医療現場の現実を見ると、未だに「膠芽腫」は完治不能であり、「脳幹部膠腫」の余命は18ヶ月から進展はない。新たな息吹がこの壁を打ち破ってくれるのを楽しみにしている。



悪性脳腫瘍―病態解析と治療戦略の最前線―
第30回日本脳腫瘍学会 (2012 グランドプリンスホテル広島)
テーマ 「悪性脳腫瘍-病態解析と治療戦略の最前線-」
栗栖 薫  (独)労働者健康安全機構 中国労災病院長  広島大学名誉教授
会長時:広島大学脳神経外科
 

 第30回学術集会を、2012年(平成24年)11月25日~27日にグランドプリンスホテル広島で開催しました。私個人としても、広島大学脳神経外科学教室並びに同門会としても大変光栄な事であり、改めまして関係各位に感謝申し上げます。本学会の30年間にわたる歩みと進歩を鑑み、また、将来への更なる発展を求めて、上記主題のもと、学術発表を組ませて頂きました。
 海外から、エッペンドルフ大学のWestphal教授、トロント小児病院のDirks教授を招待しました。Westphal教授は、Gliadelの欧州での臨床成績をはじめ成人膠芽腫に対する種々の臨床試験の結果など、膨大な量で密度の高い講演をされました。更に、膠芽腫を神経腫瘍医として治療する際の脳神経外科医の役割をしっかりと強調してくれました。また、Dirks教授は世界に先駆けて脳腫瘍の幹細胞研究を発表しており1999年9月にトロント小児病院を訪れて以来の知人ですが、十数年経た脳腫瘍幹細胞研究のその後の発展につき素晴らしいご講演を頂きました。加えて、脳腫瘍の新しい治療手段としてのTumor Treating Field(TTF)も、3名の海外(ボストン、サンディエゴ、テルアビブ)からの医師に紹介して頂きました。このように正に、“最前線”の状況を参加者で共有し、非常に国際的な学会となりました。
 結果的に、以上の海外からの講演以外に、口演51題(シンポジウムに相当。10題の英語セッション、6題の教育セミナー関連を含む)、ポスター発表222題(20題のデジタルポスター発表を含む)を組むことができました。また、教育セミナーは、「脳腫瘍患者のトータルサポーティブケア」とまとめ、岡山大学精神神経科内富庸介教授、広島大学病院感染症科大毛宏喜教授、リハビリテーション科木村浩彰教授、脳神経外科飯田幸治講師により行われました。それまでの本会の歴史で扱われていなかった領域でした。ランチョンセミナーは3題となり、市民公開講座4題を含めると計285題となりました。多くの素晴らしい演題を頂きました、会員の皆様に改めまして厚く御礼申しあげます。最終的に学会参加者が440名を越え、当時としては一施設開催として最高の参加人数となりました。
 市民公開講座は学会の初日(日曜日)午後に同時並行して開催しました。「分かりやすい脳腫瘍の話」と題して、広島大学脳神経外科のスタッフがそれぞれの得意分野を担当し2時間で締めくくりました。こちらには340名を越える一般市民が参加しました。会場は瀬戸内海に面したホテルで、参加の皆様から「素晴らし会場と素晴らしいロケーションだね!」と賞賛頂きました。また、本会の特徴である2日目の午後のエクスカーションでは世界遺産宮島、あるいは大和ミュージアムをチャーターボートで訪れるコースを設定しました。参加の皆さんは、頭(と胃袋!?)を切り換えてエンジョイしておられました。
 本会の特徴は、「ポスター&ワイン」のセッションで本当に十分な討論をすることにあります。2日間とも相当量のワインと日本酒で白熱した討論が続きました。懇親会では、故魚住徹先生の娘さん、「魚住りえ」さんに総合司会をして頂き華やいだ雰囲気を作って頂きました。このように、当時としては記録に残る学会となりました。勿論記憶に残る節目の学会にもなったと思っています。



第31回日本脳腫瘍学会の思い出
第31回日本脳腫瘍学会 (2013 フェニックスシーガイアリゾート)
テーマ 「脳腫瘍治療の新展開」
竹島 秀雄  宮崎大学医学部附属病院脳神経外科
 

 第40回の日本脳腫瘍学会の開催、誠におめでとうございます。
 早いもので私の担当した第31回から既に9年が経過していることに今更ながら驚かされます。
 私は2013年12月8日から3日間、宮崎市のシーガイアコンベンションセンタにおいて学術集会を担当させて頂きました。学会のテーマは、かなり大上段に振りかぶっていますが、「リサーチルネッサンス:脳腫瘍治療の新展開」とさせて頂きました。
 私が宮崎に赴任して最初の全国学会でしたので、自分でもかなり力が入っていたと思います。当時、基礎研究の裾野が狭くなっており、再興を目指したいとの思いでした。一方、臨床的にはアバスチンやギリアデル、アラベルなど脳腫瘍治療の新薬が相次いで保険承認された頃であり、各製薬メーカーも元気で、スポンサー探しも全く苦労がなかったと記憶しています。最近の学会運営の世知辛いことと隔世の感があります。また、会場がバブルの頃に建てられた建造物で無駄なスペースが広く、さらに周囲がゴルフ場に囲まれていたこともあり、ゴルフ愛好家の皆様にとっては、腕がウズウズする状況だったと思います。
 さて、学術的な面に関する学会の目玉は、Bevacizumabの2つの大規模臨床研究(Avaglio, RTOG0825)に関して、両研究で結果のsurvival curveはほとんど一緒なのに、有効性に関する解釈が大きく異なる発表がなされ、その解釈に困惑していました。そこで、同じ会場で直接双方の研究責任者を招聘し、討論頂ければ理解の一助になるのではないかという考えから、Dr. Mark Gilbert, およびDr. Wolfgang Wickをお招きすることにしました。このお二人には全く面識がなかったこともあり、前年のSNO, EANOの学会に単身参加して,直接プレゼンテーションを拝聴後、会場でアポイント無しで突撃依頼し、お二人から快諾を得たことは、楽しい思い出です。
 また、教育講演としては、テモゾロミドの治療に関して近い将来臨床的に問題になると思われた、de novo B型肝炎、妊孕性のための精子卵子の保存の問題に加え、分子標的療法が先行している肺癌など各分野の専門家をお呼びして、今後の問題に対する理解を深めることができました。
 第31回の裏テーマは、「焼酎天国」でしたが、宮崎県内の酒蔵から様々な焼酎を集め、皆様に楽しんで頂けたと思います。その折りは、「百年の孤独」などの有名どころや霧島酒造からは一般発売前の「茜霧島」「赤霧島」などの我々もまだ見ぬ焼酎なども集めることができました。ポスター発表後は各自のお部屋に持ち帰り自由としましたが、それでも、集めすぎたためか学会終了後、教室が一升瓶のケースの山でしばらく占拠されてしまいました。
 ここ3年は学会会員が同じ会場に宿泊し、夜を徹して車座になって脳腫瘍の研究と治療について熱く語り合う、昔の本学会の姿から離れた運営が続いていますが、一日も早くそのような「密な学会」を取り戻せることを切に祈っております。

 


マウスは研究以外でも重要と思った舞浜での学会
   第32回日本脳腫瘍学会 (2014 シェラトン・
グランデ・トウキョウベイ・ホテル)

テーマ 「見えてきた脳腫瘍、見えてくる脳腫瘍」
藤巻 高光  埼玉医科大学病院 脳神経外科
  
 

 第32回の日本脳腫瘍学会は2014年11月30日から12月2日、千葉県浦安市で開催しました。「人里離れた場所で学問と議論に集中」「ホテルに缶詰、合宿形式で」との伝統を踏襲して開催しようと会場を探しました。故郷の長野県の安曇野にも、関東一円にもいままで開催された場所を除くと400人規模(当時)が泊まれて会議ができるホテルがありません。とうとう舞浜のホテル群に注目しました。人里離れてはいませんが、テーマパークに来訪するお客さんが目的の宿泊場所、ホテルを抜け出して行く飲み屋街もなく、交通の便もそう良くありません。「人里離れて」はいませんが「缶詰」になれそうです。しかし「伝統」のエクスカーションに行く適切な場所がありません。2時間だけテーマパークに行くのは欲求不満が残りそうです。そこで懇親会に有名キャラクターのみなさんに登場していただくことを考えました。しかしこれは直営のホテル(そこは学会に対応する規模ではない)のバンケットでのみ可能とのこと。しかも団体利用は半年前から予約可能なので学会準備が進みません。つてを探して社長室に直談判に伺いました。缶詰で勉強しようという会員の心意気に感じていただいたのか、特別に1年以上前からの予約のGoが出たのです。白熱する議論では難しい顔をされる先生方がキャラクターたちととびっきりの笑顔で記念撮影されていたのが印象的でした。
 学術の方面では、都会に近い会場で予算が嵩む中、海外の友人たちが、招聘費用なくても行くよと言ってくれました。後に企業のスポンサーがついた方も含めてBouffet先生、Taylor先生、Ching Lau先生、Stupp先生、Mrugala先生と5名もの海外の先生から最先端のneuro-oncologyの知見を講演いただき、また私の出身大学の後輩による同時通訳のおかげでディスカッションにも参加いただきました。学会のプログラム編成では理事の先生がたの採点方式を初めて取り入れました。抄録を複数の先生に採点いただき、テーマ別に得点の高い演題を口演でご発表いただくことで、会場の皆で内容をシェアし、議論できるようにしました。一方、ポスターセッションも討議時間を十分とり多少時間延長しても良いように場所を用意し、伝統に則って議論の潤滑油(油というより分子量46の親水分子を含みますが)と軽食も準備しました。当時まだ珍しかったデジタルポスターも一部取り入れて手術などについての討議も行いやすくしました。深夜にポスター演題をすべて拝見して6題を「会長賞」として表彰させていただいたことも思い出します。
 WHO2016の発表前夜のこの頃より脳腫瘍の分子診断・分類が急激に進歩し、それはまた今盛んに試みられている分子標的治療への流れとなっていきます。いま振り返ってもテーマの「見えてきた脳腫瘍、見えてくる脳腫瘍」は時宜を得ており、またそれに相応しいご議論をいただけたと思っています。
 前述のエクスカーションの代わりは2時間の「リフレッシュメントセッション」として、「活断層と火山の話」(大学同期の広島大、奥村晃史教授による)、「ワイン入門」、学問好きの方には「プレゼンと論文の書き方」、「SNOの話題-グリオーマ治療」と4つの話題でお楽しみ(?)いただきました。
 故郷の信濃大町の銘品も展示し、辛口の「白馬錦」も試飲の上、多くの先生に通販をお申し込みいただきました。懇親会で元プロの音楽家の教室員がリーダーの弦楽四重奏に、学会長が管楽器で乱入したお耳汚しは余興とこの場でお詫びしておきます。
 主催者が意図した「脳腫瘍医が顔が見える関係を築き、最新の学問の討議に3日間どっぷりつかる」が実現できたでしょうか? 開催にご尽力いただいた皆さんと全ての参加者にこの場であらためて深謝いたします。455名と過去最高(当時)のご参加をいただいたことはよき思い出です。



第40回日本脳腫瘍学会学術集会に寄せて
第33回日本脳腫瘍学会 (2015 グランドプリンスホテル京都)
テーマ 「挑戦とその検証」
淺井 昭雄  関西医科大学脳神経外科
 

 はじめに、成田先生、第40回日本脳腫瘍学会学術集会会長、おめでとうございます。また、このような大変楽しい企画を立てていただきどうもありがとうございます。
 私は、2015年晩秋の京都で第33回日本脳腫瘍学会学術集会を主催させていただきました。あれからもう7年になるのかと思うと月日の経つのは本当に速いものですね、私も記銘力やら体力の衰えを痛感する昨今です。私ぐらいに歳になるとこれまでのいろいろな人との出会いがいかに重要であったを実感することがしばしばありますので、私の脳腫瘍人生に影響を与えた人との出会いを振り返ってみたいと思います。
 私が、入局した当時の医局には、身近に血管障害チームの浅野孝雄先生、落合慈之先生、佐々木富雄先生など強烈な個性の先生方がおられたので、そのまま引きずられていくのかなと思っていましたが、卒後3年目に勤務した都立駒込病院で松谷雅生先生から薫陶を受けたことで私の進むべき道が悪性脳腫瘍に決定しました。GBMのOSを伸ばすために、手術で取れるものは徹底的に取り、さらに術中照射、小線源治療など当時最新のadjuvant治療を駆使してGBMと真っ向から戦う師の姿は泥臭さとスマートさを併せ持つ憧れの姿でした。また、同じ時期に同級生の藤巻高光先生も駒込病院に勤務しておられ、以後、お互いに切磋琢磨してよきライバルとして進んでいくことになります。1987年学位を取得後にTorontoのSick Kidsにclinical fellowとして留学し、その時、residentだったDr. Jim Rutkaと同じ時期に病棟を担当したので、いろいろ助けてもらい、また、彼がTorontoに帰ってくる前にUCSFのBrain Tumor Research Center(BTRC)のDr. Mark Rosenblumのラボでやったextracellular matrixの仕事について色々話を聞いて、まだ、研究の右も左もわからない私は、ただただ「凄い人だ」と感心したのを覚えています。Torontoでのappointmentが終了した後、松谷先生にご推薦いただいて留学したのが、期せずしてJimと同じUCSFのBTRCの故星野孝夫先生のラボでした。星野先生は本学会のfounderでもありますが、当時49歳と研究者として油の乗りきった時期で、ライフワークであるグリオーマの成長解析を研究されていました。グリオーマのS期にある細胞を術前にBUdRを使ってin vivoで標識して、摘出標本の組織切片を抗BUdR抗体で免疫染色して得られるBUdR indexを増殖能の指標として確立するなど、現在はMIB-1 indexを増殖能の指標としていますが、その礎を築かれた偉大な先生です。星野先生は当時黎明期にあった悪性脳腫瘍の分子生物学の今後の展開についても強い関心をもっておられ、UCSFのHarold Varmusのラボにいらっしゃった故平井久丸先生や、BTRCからMD Anderson Cancer Centerに移られたばかりの佐谷秀行先生に今後の研究の方向性についてご教示いただく機会を作って下さいました。その際、佐谷先生から、当該分野は非常に競争が激しいため、是非、第一線で活躍しているラボで研究するようにと勧めていただきました。そこで、当時医局長であった長島正先生と相談して国立がんセンター研究所生物物理部の口野嘉幸先生の元で当時口野先生の研究室でクローニングされたs-myc遺伝子の機能解析をすることになりました。口野先生は、純粋な基礎研究者でしたが、常に臨床へのフィードバックを意識しておられ、s-mycのアポトーシス誘導能や腫瘍免疫誘導能を遺伝子治療としてグリオーマの治療に展開できないかを考えておられました。遺伝子治療全体が、遺伝子の取り込み率が低いために頓挫した後、同様のアポトーシス誘導能や腫瘍免疫誘導能によるグリオーマ攻略のコンセプトは、私がサバティカルで訪問したGeorge Town大学におられた藤堂具紀先生らが開発した改変型ヘルペスウイルスを用いたウイルス治療に受け継がれていきます。その後、私自身の研究が行き詰まったのを契機に、臨床に戻る決意をした際、桐野先生、松谷先生のご支援もあって、長い臨床の空白を埋めて、現在に至っています。私のキャリアあるいは人間として現在あるのは、これらの方々との出会いのおかげと思っております。どうもありがとうございました。



Mitchel Berger先生の十戒
第34回日本脳腫瘍学会 (2016 甲府冨士屋ホテル)
隈部 俊宏  北里大学脳神経外科 
テーマ 「“The Gliomas” グリオーマのすべて」
 

 2016年12月に第34回日本脳腫瘍学会会長をさせて頂きました。その時に私の恩師でありますProf. Mitchel S. Berger先生から、“How to Transfer the Surgical Techniques for the Resection of Gliomas to the Next Generation” という内容でご講演賜りました。その講演は次のような極めて印象深いスライドで締め括られました。Berger先生から使用の承諾を得ておりますので、掲載させて頂きます。

<The 10 commandments of the next generation>
1.  You must believe in yourself and your ability to alter the life of another person and contribute to our profession of Neurosurgery
2. You must strive to achieve a perfect outcome each and every day you care for another individual
3. You must repeat to yourself every day when you enter the hospital or operating room, “I will give 110% today and stay focused no matter what I encounter”
4. You must leave your personal problems outside of your professional world
5. You must stay physically and mentally fit
6. You must periodically evaluate your results and outcomes to determine if you are still making progress, on the plateau, or deteriorating
7. You must always read and learn from others as well as from your failures and successes
8. You must never compromise in your pursuit of perfection no matter what forces exist to have you accept less than perfection
9. You must always make a decision and never be indecisive. If you do this you will always make more right than wrong decisions
10. You must never be shaken or discouraged by a bad outcome or complication, but you must always feel the pain of the patient and their family and know that you have changed their lives forever. Mourn your errors, mourn your losses, but pick yourself up and fight for the next patient’s life

何回読んでも、その時の自分の心と体の状態でまた新しく自分の心に染み渡る内容です。
この「十戒」を心に留め置いて頑張ってやっていこうと思う次第です。
日本脳腫瘍学会会員全員の健康と発展を祈って。



第35回日本脳腫瘍学会を開催して
第35回日本脳腫瘍学会 (2017 JRホテルクレメント高松サンポートホール高松)
テーマ 「日本から世界へ」
田宮 隆  香川県厚生農業協同組合連合会 会長時:香川大学脳神経外科
 

 2017年11月26日(日)- 28日(火)に第35回日本脳腫瘍学会学術集会をJRホテルクレメント高松・サンポートホール高松大ホールで開催させて戴きました。私がこの学会に初めて参加したのは1985年の第4回日光脳腫瘍カンファランスが阿蘇で開催された時と記憶しています。田渕和雄先生、松本健五先生に引き連れられ、会期中はほぼ二日酔いで過ごしたように思います。本学会は、季節外れのリゾート地で脳神経外科医を中心に神経病理、神経放射線、基礎医学の先生も加わり、脳腫瘍の最先端の基礎・臨床研究についてワインやお酒を飲みながら夜を徹して議論する学会として発展してきました。このような学会を香川で開催できたことをほんとうに光栄に存じております。この学会から研究に興味を持ち世界へ羽ばたいた先生も多数おられ、またこの学会から世界に新しい知見を発信させたいという想いから「日本から世界へ」をテーマにしました。特別講演には、私の留学時代に指導戴いたChiocca EA教授(Brigham and Women’s Hospital, Harvard Medical School)、小児脳腫瘍研究支援委員会の援助によりAmar Gajjar教授(Department of Pediatric Medicine, St. Jude Children's Research Hospital)、またReardon DA教授 (Dana-Farber Cancer Institute, Harvard Medical School)の3人の先生から賜りました。また世界でご活躍の日本人研究者として、笠原典之先生 (Department of Cell Biology, University of Miami) 、中野伊知郞先生 (Department of Neurosurgery, University of Alabama at Birmingham) 、脇本浩明先生 (Brain Tumor Research Center, Massachusetts General Hospital)、市村幸一先生(国立がんセンター研究所)をお招きし、若い先生方の刺激になったのではと思っています。 香川大学からは腫瘍病理講座の今井田克己教授と臨床腫瘍学講座の辻 晃仁教授に「がん」に関する基礎と臨床の教育講演を賜りました。その他、スポンサードシンポジウム、シンポジウム、デジタルポスターシンポジウムなど、一般演題は250演題以上の応募を戴き、例年通り、ポスターセッションとして遅くまでワインや香川の地酒を楽しみながらディスカッションしました。恒例のエクスカーションは、昼食にうどんを食するツアーを組み、素晴らしい紅葉も楽しむことができました。また450名以上の参加者全員での着席夕食会では、香川大学脳神経外科同門会員を中心としたジャズバンドの演奏とホテル自慢の料理を楽しみ会員の友好も十分深めることができました。讃岐、四国は88カ所巡りが有名ですが、このお遍路が1200年以上続いている理由は、「お接待(おもてなし)」の文化が地域に根付いているからだと思っています。本学会開催に当たってはいろいろとご不便もお掛けしましたが、この「お接待」の気持ちだけは忘れず開催したつもりですので、ご容赦の程お願い申し上げます。
 このように多くの方々のご協力ご支援のお陰で非常に有意義な学会が香川で開催できたことを心より感謝申し上げます。日本脳腫瘍学会理事長(当時)の西川 亮先生をはじめ、監事、理事、座長、演者、会員の先生方、事務局の皆様、株式会社コンベックスの方々、共催やご支援戴いた企業、病院、そして香川大学脳神経外科関係の方々、すべての方々に心よりお礼を申し上げます。最後に成田善孝会長の下、第40回日本脳腫瘍学会が盛会となりますよう心より祈念申し上げます。



人の繋がり
第36回日本脳腫瘍学会 (2018 ヒルトン小田原)
テーマ 「次世代へ:To the Next Generation」
植木 敬介  厚生労働省労働保険審査会
会長時:獨協医科大学脳神経外科・総合がん診療センター
 

 私が初めてこの学会の前身である「日光脳腫瘍カンファレンス」に出席したのは、1988年に松谷雅生先生が富士ビューホテルで開催された時でした。当時駒込病院に在籍していて、学会参加、というよりはお手伝い要員としてそこにいさせていただいた、という方が正確です。一応、脳腫瘍の研究をやってはいましたが、今から思えば本腰が入っているとは言えず、将来進む道も深くは考えていなかったと思います。それでも、参加してみると、当時は論文で名前を見たことがあるだけのPeter Burger 先生が、異様に近い距離感で講演、質疑応答、そして懇親会での雑談、議論を行なっていたのに強い印象を受けました。日本の著名な先生方も同じで、ラフな格好で一部は飲んだくれながら、いろんな話をしていました。その後私は転勤し、さらに米国に留学したために、学会に出ることはなく時間が経ち、次に参加したのは8年後の1996年、David Louis のお供のような感じでの出席でした。すでに「日本脳腫瘍カンファレンス」としてオープンな学会になっていましたが、学会の雰囲気は同じで、ワイワイガヤガヤ、多くの人といろんな話ができました。私が2018年に、小田原ヒルトンで第36回の学術集会を開かせていただいた時も、この雰囲気を維持し、発展させることを強く意識していました。
 医師、研究者という仕事は、真面目であればあるほど、狭い人間関係の中での仕事の毎日で、人の繋がりが広がっていきにくい職業です。そんな中で、似たようなことに興味を持ち、毎日いろんな疑問を抱えながら臨床や研究の日々を送っている同世代、先達、若い世代の人たちと、ゆっくり深く話すことができるフォーマットは貴重で、それが脳腫瘍学会が与えてくれる場である、と思います。
 脳腫瘍の臨床、研究は、ゲノム科学の急速な進展に伴って、過去20-30年の間に飛躍的に進歩し、その歩みはむしろより早くなってきています。有意義な研究と、その時その時で最も正しいと思われる臨床を行なっていくには、頻繁で深い意見交換や、共同で行う研究が不可欠になっていると思います。疑問に思ったことや、探している問題解決の糸口、そんなことを学会発表での質問や、ポスターセッション、懇親会、お風呂、いろんな場を捕まえて、これはという人に話すことができる、そんな学会の必要性はより大きくなっているかもしれません。
 一線に立って生産性の高い仕事ができるのはせいぜい20年。その後の進歩発展は次の世代の仕事、という繰り返しです。バトンを渡す側にいる人も、持っている人も、次に受け取ろうとしている人も、それぞれが自分の役目をどうしたら最大限に果たせるか、という意識をどこかに持って、それを学会という場でも表現していくことで、総体としてより大きな貢献ができると信じています。
 Covid-19のおかげで、隣の部屋にいる人ともWeb会議を行う、ということが普通に行われる、変な時代になりました。しかし、一方では、世界中のどこに居ても、話したい人がいれば、すぐ隣の部屋にいるように、気軽にいろんなことを話せるということです。ただ、そのベースに、お互いに人としてよく知っていることがないといけません。距離、学閥、年齢、言葉などはハードルにすることなく、より多くの人と知り合い、問題を共有し、相談し、お願いすることができる、そんな人の繋がりを作る場として、脳腫瘍学会が今後も機能し、発展していくことを願っています。
 人との繋がりは、人生を豊かにする、最も大事な要件ですから。



第37回 日本脳腫瘍学会学術集会(2019年12月1~3日)
2019 加賀屋あえの風(石川)
テーマ 「Multi-Disciplinary Neuro-oncology」
永根 基雄  杏林大学医学部脳神経外科
 

 杏林大学医学部脳神経外科学教室が主管となり、第37回日本脳腫瘍学会学術集会を2019年12月1日~3日に石川県和倉温泉の加賀屋姉妹館あえの風ホテルにて開催させて頂いたことを、今も大変に光栄に存じております。本学会の伝統を引き継ぎ、参加者一同が一つのホテルに泊まり込み、日々多忙な日常臨床業務から離れて、会期中朝から晩まで心おきなく脳腫瘍について語り合う(明かす)独特なスタイルを踏襲することができましたが、振り返りますと、開催直後の翌月から未曾有のCOVID-19 pandemicが発生し、学術集会の開催方法が一変したことからは、名だたる加賀屋を舞台に大盛況の中開催できたことが奇跡的にさえ思われます(エクスカーション=加賀屋温泉)。
 274演題もの発表を頂き、学術集会のテーマは「Multidisciplinary Neuro-Oncology」とし、悪性脳腫瘍の研究と治療に携わる脳神経外科医、小児科医、放射線科医、病理学医、基礎研究者、腫瘍内科医に加え、看護師、リハビリテーション科のスタッフやソーシャルワーカーなど、多業種にわたるメンバーが協働して多角的に悪性脳腫瘍の治療と患者ケアに立ち向かう、という本学会の基本理念を探求することをイメージいたしました。欧米より脳腫瘍の基礎・臨床におけるご高名な6名の先生方(Webster K. Cavenee先生:成人神経膠腫の分子生物学、David TW Jones先生:小児悪性脳腫瘍分子遺伝子学、Wolfgang Wick先生:成人神経膠腫、Matthias Preusser先生:髄膜腫・転移性脳腫瘍、Christian Grommes先生:悪性リンパ腫、Daniela A. Bota先生:TTFおよび患者ケア)をご招待し、国内からも各領域でご活躍の先生方に、がんゲノム医療を始めとした脳腫瘍に関する最先端のご講演を頂くことが出来ました。
 新企画としては、①Neuro-Oncology Advances(NOA)誌への英文抄録掲載(国際的認知を目指す。図参照)、②Top Scoring Abstract(TSA)賞(全海外査読委員による)、③Scintillating Poster Discussion(SPD)(ASCO的指定Discussantによるwrap up)、④Women-in-Neurooncology (WiN)セッション(多様性・Gender問題と対峙)、⑤レガシー紹介セッション(故星野孝雄先生)、を導入し、前回同様、⑥Meet-the-Expert(MTE)セッション、⑦英語セッションも実施しました。①②企画は今回の第40回まで4年連続で採用頂いており、今後も学会事業としても推進できればと思います。
 御陣乗太鼓の響きと海産物の美味を想起しつつ、ご参加・ご支援を頂きました皆様に心より感謝申し上げます。



日本脳腫瘍カンファランスと日本脳腫瘍学会について
   第38回日本脳腫瘍学会 (2020 リーガロイヤル広島)
テーマ 「Neuro-Oncology On とOff」
杉山 一彦  広島大学病院がん化学療法科
  
 

 学会名が日光脳腫瘍カンファランスから日本脳腫瘍カンファランスへと変更になった1992年に初めて本会に参加した。闘病中であった星野孝夫先生の凄まじい気迫とUCSF在籍中の佐谷秀行先生のグリオーマ遺伝子変異についての講演に衝撃をうけた。ポスターセッションがなかなか始まらないので「遅いなー」とつぶやいたら、ポスターの座長であった田淵和夫先生に「すいませんね。もう少し待ってね。」と声をかけられ、大変恐縮したことを記憶している。以下、病棟の当直がどうしても都合がつかなかった1997年以外はすべて参加している。年次を問わず脳腫瘍学会の期間中の3分の1は遺伝子の話であり、それらほとんどの時間はチンプンカン状態であったが、不思議と睡魔には襲われなかった。
 2012年に脳神経外科部門から広島大学病院のがん治療全体を統括する部門に移動した。乳がん、肺がん、大腸がんなどの部門はすでに遺伝子変異に基づくがん分類が臨床に導入されていて、分類に基づいた治療選択が進んでいた。これらの遺伝子変異に基づくがん分類を勉強する時、禅問答のように聞こえていた脳腫瘍学会での座学が大いに役立った。また、他領域のがんを勉強することで、脳腫瘍の遺伝子変異についてもよく理解できるようになった。達磨大師の面壁9年とはよく言ったものである。一方で、特定の遺伝子変異に対して薬効を持つ薬剤を勉強することが分類の重要性を強く認識できることには驚いた。WHO2021はレベルの高い研究成果に基づいた素晴らしい分類であるが、薬剤開発が追いついていないため、私には分類のための分類のように見えて仕方がない。
 2009年からは診療ガイドラインの作成に携わることとなった。これはそれまで作成の統括をしていた京都大学の高橋潤先生がご体調を崩され、それを引き継いだことによる。ガイドラインの何たるかを理解することからはじめなくてはならなかったが、渋井壮一郎先生や西川亮先生、松谷雅生先生や嘉山孝正先生をはじめとする理事会メンバーを含むガイドライン拡大委員会の多大かつ寛大な協力なくしては小児脳腫瘍編、成人脳腫瘍編まで完結できなかったと思う。そして、メールや電話で常に叱咤激励を続けてくれた副委員長隈部俊宏には感謝を尽くしても尽くし切れないほどの援助を頂いた。この場を借りて御礼を申し上げる。
 2020年には第38回日本脳腫瘍学会学術集会会長として、本会を広島市で開催した。新型コロナウイルス第3波が不気味に忍び寄る中での開催となり、本会の重要な開催形式である「ワイン&ポスター」セッションを開催できなかったことは今でも痛恨事である。中国山地のワインとチーズで皆様をおもてなししようと計画していたが、皆様の夜のお土産としてその一部を配布できたことでやや溜飲を下げている次第である。また何より集会参加者から感染者が発生しなかったことに心より安堵している。
 2022年度の新理事も決定した。日本脳腫瘍学会も新体制のもとで益々発展していくことを祈念している。また本会会員の方々による研究が脳腫瘍診断や治療のパラダイムシフトをおこすことを確信している。



One Team for Brain Tumor Moonshot
   第39回日本脳腫瘍学会 (2021 有馬グランドホテル(神戸))
テーマ 「One Team for Brain Tumor Moonshot」
村垣 善浩  神戸大学未来医工学研究開発センター教授
 東京女子医科大学客員教授

会長時:東京女子医科大学 先端生命医科学研究所
 先端工学外科学分野
  
 

“若者よ、Moonshotを抱け”、がメッセージの39回学術集会でした。Moonshot(MS)の語源は、人類が月にいくという途方もない目標をケネディ大統領が宣言したことに由来し、この不可能と思われた夢を実現できたという縁起がいい意味も込められています。MSの根幹は、悪性脳腫瘍患者の劇的な予後改善と考えられます(会長が考えるMSはGBMの5年生存率≧50%)。Keyとなる国産の未来医療候補を論じる「ムーンショットシンポジウム」、必要なOne Teamを構成するための「男女共同参画セッション」(患者会も参加)や「領域任命理事セッション」(基礎研究、化学療法、放射線治療、病理、小児脳腫瘍)、学会初のリハビリテーションに関するシンポを企画しました。MSを実現されたRoger Stupp先生とJohn Adler先生は達成の苦労話ではなく次の治療を熱く語る姿は印象的であり、チーム医療の先駆者上野直人先生の講演には多くの賛辞の感想を頂きました。また、MS実現のための戦術として、3学術分野―Oncology(佐谷秀行先生と宮野悟先生と大須賀覚先生)・Neurology(後藤由季子先生、酒井邦嘉先生)・Technology(金彪先生、Michael Sughrue先生)―の融合が必要と考え、各先生から最先端の講演やmeet the expertsでお話し頂きました。
 さて、2021年12月5日~7日の開催に向けて、開催方法を決定すべき9月時点では、第5波が落ち着きかけていたとは言え新型コロナウイルス感染状況は見通せず、事務局内でも学会とも多くの議論がありました。出発直前全員抗原検査や、有馬グランドホテルの全面的な協力の元、選択できる学会参加スタイル(学会聴講や懇親会ともに現地別室参加可やポスター会場に飲食所設置)等の“新策”を導入しました。ハイブリッド開催の全参加者443名中約8割の350名が現地参加となり、ポスターセッションを含めて計271演題の発表と活発な討議が行われました。神戸の夜景を見るエクスカーション、新企画「脳腫瘍IPPONグランプリ」(大阪医科薬科大学発案)や「脳腫瘍Bigディベート」を連夜開催し大いに盛り上がりました。久しぶりに対面学会の良さを再認識したとの言葉をうけ、日本脳腫瘍学会設立当初よりの伝統である喧騒を離れた会場で環境を楽しみながらとことん議論するという目標は達成できたのではと考えます。何よりも感染報告なく無事終了したことが会長として最も喜ばしい成果です。ご参加・ご協力頂いた永根理事長はじめ会員の皆様、そして事務局スタッフに深謝いたします。
 One team を率いた“気持ちが若い者達”が、本学会で発表した国産新治療を用いてMSを実現することを将来見ることができれば望外の喜びであり、達成に向けて支援と努力をしたいと考えています。39回学術集会終了後のメッセージは、“若者達よ、Moonshotを達成せよ”です。頑張ってください。

   
NOA(2021supp6)誌使用の
ポスター
  新ハイブリッドポスター法   東京女子医科大学事務局